<メンバー>
松 九 会 登山クラブ :
藤井哲夫、信岡雄蔵、原田和夫、加藤敏明、峰藤明、林幸子、藤岡敏子
元木正彦(大分宇佐から参加)
福岡まいづる山岳会 :
井上孝、牧野正治、児玉かめ子
<コースタイム>
●15日(金): 23:00博多埠頭集合・乗船手続き:九州郵船フェリー対馬行きに乗船
0:10出航
〜船中泊〜壱岐・芦辺経由〜
●16日(土): 04:55対馬・厳原港着岸
05:00下船…タクシー=鶏知(けち)=洲藻白嶽登山口5:40…(登山途中6:30頃から日の出・写真撮影タイム
6:40)…7:10石の鳥居7:17…8:20石の祠(山頂岩峰下鞍部・広場)…8:28洲藻白嶽山頂8:50…9:00山頂岩峰下鞍部(朝食)9:20…9:55石の鳥居…10:50洲藻白嶽登山口(タクシー)=11:20城山・金田城登山口(地名・蔵ノ内)11:36…東南角石塁…東屋…南西部石塁…12:40砲台跡広場…12:50城山山頂…13:05砲台跡(昼食)13:15…砲台跡下山開始13:25…14:20城山・金田城登山口(タクシー)=民宿・豆酘(つつ)(泊)
●17日(日): 宿7:30…7:45有明山登山口…8:10清水山8:20…8:30有明山・成相山鞍部…9:05有明山・成相山分岐…10:00有明山山頂10:25…11:40有明山登山口…12:00厳原町…12:10郷土料理・しまもと(昼食)…万松院見学…厳原港15:25〜20:45博多港(解散)
◎16日(土):予約していたジャンボと普通のタクシーに分乗し洲藻白嶽登山口へ。夜もあけぬ暗い中、ヘッドランプの明かりを頼りに山道をたどる。東の空が次第に赤みを増し、やがて木陰の間にオレンジ色の太陽が昇って辺りを真っ赤に染め、徐々に美しい日の出の色を変え、光の饗宴が始まる。“今日は天気が良いので、対馬の日の出は見事だよ”と運転手が言っていたが、本当に素晴らしい!、皆カメラのシャッターを押すのに夢中。
だんだんと大きな岩が目立ってきて行者の岩屋を過ぎ、上見坂との分岐点・白嶽神社の石の鳥居に着く。一息入れて鳥居をくぐり、常緑樹原生林の急斜面を登り、山頂岩峰下の鞍部に鎮座する白嶽神社(祓戸神社)の石祠に出る。さらに急坂の岩場となり、高さ40mを超えるほどの2つの岩峰の西側へ回りロープ場を慎重によじ登って、洲藻白嶽の岩峰の山頂に立った!。山頂からは360度の大パノラマが広がり、眼下に浅茅(あそう)湾のリアス式海岸の岬や島々、これから登る城山、対馬空港も見え西から南には対馬最高峰の矢立山(649m)、明日登る有明山なども望める。だが、屹立した狭い岩の山頂、下が見えないほどにぐるりと切れ落ちた岩峰で、迫力のある高度感に浸ったが、突風でも吹きつけると?の思いで早々に岩場を降り、岩峰下の広場で遅い朝食をとり下山する。
迎えのタクシーで次の城山登山口へ。移動の車窓から先ほど登った洲藻白嶽の鋭い2つの岩峰(双耳峰)が見上げられた。(ツシマヤマネコの尖った三角耳のように思えた。)
登山口には「金田城(かねたのき)」の大きな案内看板と「国指定特別史跡金田城跡」の石碑がある。『この山は古代の山城で、663年、朝鮮半島・白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れた大和朝廷は、667年、城山全体を石垣で囲って朝鮮式山城…金田城を完成させた。当事者は大化改新で蘇我氏を滅ぼした後の、中大兄皇子(即位後・天智天皇)。この敗北は国内に体制強化への緊張感を生じさせ、「日本」という国家が整備されていく原動力となった。関東から徴兵され城山に配置された防人(さきもり)たちが山頂から水平線の先をどんな思いで睨み続けていたのか…。さらに日露戦争前に再整備。造られた要塞砲台の遺構も併存する』
幅3mほどの旧砲台道が登山道で、足もとにはシイの実がたくさん落ちていて、つい拾いたくなるが先へ急ぐ。薄暗い照葉樹林を抜け、右に美しい黒瀬湾や東南角石塁を見下ろし、紫色のダンギクの花を愛でながら東屋(あずまや)へ。案内板のスイッチを押すと日韓の音声ガイドが流れる。さらに歩を進めていくと南西部の石塁が海に向かった斜面に築かれており、間もなく砲台跡に着く。弾薬庫、兵舎、井戸などの施設が名残を留めている。リュックをデポして山頂への北へ伸びる急な岩尾根に取りつき、やがて城山頂上の岩場に到着。展望は開け対馬上島・下島の主な山々、リアス式海岸の美しい浅茅湾の島々や入り江、浦が点在する。西には朝鮮海峡が広がるが、水平線の彼方の韓国は霞んで見えない。砲台跡の広場に下って昼食、下山。
迎えのタクシーで厳原の町へ。“温泉でさっぱり”と思ったが運転手曰く、今対馬は韓国の人が多くホテルも温泉も、あなたたちが立ち寄れるところじゃなくなった!。目を覆いたくなるような…で、諦めて民宿へ直行。厳原の街には貸切バスが2台、3台と続き多くの人々が降りて、声高な会話が響く。
民宿に着いたが誰もいない。玄関は開いているのでとりあえず荷物を大広間に入れ待つ…、しばらく近所を回るが宿の人が居そうでもない。風呂にも入りたいと覗いてみたが、お湯はまだ…。もう入れちゃえ!と信さんが浴槽を洗いお湯を沸かし始める。手持ち無沙汰でビールでも仕入れようと牧野さんと街へ歩く。と、向こうからおばあさんが一人歩いてくる。すれ違うとき何となく目があって、双方が立ち止まる。民宿の“おばあちゃん”かと、お互いに声をかけあったら“ちょっと病院へ行って遅くなった”と。“誰も居ないがみんな上がったよ、いま風呂も沸かしよるけん”“わぁありがとう”で別れ、街中のスーパー・レッドキャベツで缶ビール・焼酎を調達し戻り、風呂に入る人、酒盛りに加わる人で過ごす。
夕食には“お疲れさん!”で乾杯。対馬の海の幸をいただく。
◎17日(日):今日は宿から直接歩いて山に入る。まず市役所前から歴史民俗資料館前へ行き、コンクリート道の急な坂を詰め、広い階段状の遊歩道を進み清水山城趾(本丸)に登る。この山は『16世紀の豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に築かれた山城で、尾根伝いに本丸(一の丸)・二の丸・三の丸の石積み(城壁)が残り、安土桃山時代の山城の貴重な遺構。国史跡指定』で、続けて有明山への道をたどり明るい林の中を気持ちよく登る。要所要所には「現在地の標高・山頂まで○○m」の標識が立てられているが、ハングル文字の黄色の幅広テープが目につく。ジグザクの急坂を成相(なりあい)山分岐へ出て左折して、尾根沿いの平坦な道とやや急な傾斜を登り詰めると、樹林がなくなり空が広がる。足もとにはセンブリなどの小さな秋の野の花が咲き、前方にはススキの白い穂が波打ち、すぐに広い草原の山頂。
山頂からは南側の展望は良いが、北側は背丈ほどのススキに遮られて見えない。少し西側へ歩くと、昨日の洲藻白嶽が遠くにうっすらと岩峰を見せている。ススキの中には池塘(やや深そう)が点在し水を貯めているが、ハングルの菓子袋やボトルが投げこめられて、景観を損なっている。
街へ降りて今登ってきた「対馬の嶺」と古くから呼ばれた「有明山」を振り返る。街中では自衛隊の記念日で、銃を掲げた軍服姿の隊列、装甲車やミサイル(ダミーか)搭載の車、空には戦闘ヘリコプターなど、国境を守る現代の防人のパレードが行われていた。
昼食は予約していた「割烹・料亭の志まもと」。2日で4つの山を安全無事に登り、降りてきたことに感謝し、生ビールで乾杯。海鮮料理と名物“ろくべえ”に舌鼓を打つ。フェリーにはまだ時間もあり、歩いて万松院(ばんしょういん)(対馬藩主宗家の墓所)を見学して、宿へ戻り荷を受け取って、厳原港へ歩く。対馬海峡を渡る、フェリーからの夕陽もまた綺麗だった。
船室では、東京方面からの対馬、壱岐、太宰府と巡る一行と出会い、酒を酌み交わし歓談。国境の対馬の厳しい現状には、島外からの我々も考えさせられるものがある。1300年前もの昔から国の防衛のために先人が築いてきた、いくつかの城塞を目の辺りにして、今この日本を、対馬をどう護るのか。…日本最南端の島々、北方の4島、果ては沖縄…と。
対馬はいま、買われている!。売られている!。この島の将来は…。
街はずれには“格安かしや”の紙が貼られた無人の家屋があった。
(藤井哲夫 記)
【写真撮影:原田和夫
】
:加藤敏明-Ka】
|