4月30日から山陰地方に遠征登山。5月1日にカタクリ群落の船通山に登る。せっかく山陰まで来たのだから5月2日は三瓶山に登る事にした。
●5月2日(金):国引き神話の山・三瓶山4峰を縦走 晴
三瓶山は女性的な(くじゅう連峰に似て)優しげな山容だが、鳥取県の大山とともに中国地方を代表する名山で「出雲国風土記」に佐比売(さひめ)山と記され、土地を引き寄せる際に網を掛けた杭が、この山であった(国引き神話の山)。佐比売山のほかに石見富士、形見山の名もある。
男三瓶を主峰に、女三瓶、子三瓶、孫三瓶、赤雁山、太平山の6つの峰が環状に連なって、広い裾野は牧歌的雰囲気で山麓には良質な温泉「三瓶温泉」があり、四季を通じて人気がある。昭和36年頃に3回ほどスキーに行った山である。
(メンバー)
松九会登山クラブ:藤井哲夫、澤田眞次・律夫妻、原田和夫
まいづる山岳会 :井上孝、石内美佐子、児玉かめ子、友清節子
(コースタイム)
宿(車1台残す)=7:30東の原登山口(スキー場)P…8:20リフト終点上部…太平山分岐…8:40女三瓶山頂(休)…9:50三瓶山頂小屋…10:00男三瓶山頂(休憩)…10:55鞍部(865m)11:20子三瓶山頂(昼食)11:55…12:25孫三瓶山頂…13:02孫・子分岐…南登山口…さんべ荘P=東の原登山口Pへ車取り=さんべ荘P=(JR大田市駅・友清帰福・下車)=16:45温泉津(ゆのつ)温泉・まるき旅館(泊)
リフトに乗って女三瓶山のすぐ下まで上がれば、時間が稼げエネルギーも消耗せずに済むと思ったが、運転開始が8時半頃なので、1時間も待ってはもったいないと歩くことにした。広い高原のスキー場の左端が登山口で、入口に「登山道崩壊のため通行禁止」の札があるが“注意をしながら歩こう”と進む。ちょうど大きなワラビがたくさん生えているが、採取禁止令(採れば歩みが遅くなる)を出して先へ急ぐ。登山道は大きく抉られて人の背より深く崩壊しているが、雨天時でなければ危険性はない。左から巻くようにして太平山の手前下へ出ると、見事なコバノミツバツツジが枝を大きく広げこんもりと咲いている。間もなくリフト終点の上に出て、すぐ上の縦走路を左に折れると太平山(654m)だが右へ進む。
ジグザグ道を登り20分で女三瓶山(953m)山頂に着く。TVのアンテナが林立し、見晴らしのよい展望所で左から孫三瓶山、子三瓶、主峰・男三瓶が並び、眼下に太平山、スキー場が広がる。男三瓶へは一旦900m地点まで下り、兜山から先は険しい岩の急坂(尾根道)を乗り越え、ユートピアを過ぎて、急坂を登り切った平坦な大草原に建てられた、三瓶山頂小屋(避難小屋)に着く(WCはなかった)。そのすぐ上へひと登りで男三瓶山山頂(1126.2m)に到着、一息入れて子三瓶へ向かう。これからは急な“三瓶の大下り!”で865m位(私の高度計)の鞍部まで、ひたすら下って行く。途中登ってきた人に「どうぞ…」と道を譲っても「いや、休みたいから…」と言うほどに、きつい坂だ。だが山の小鳥たちは陽春を満喫しているかのように、ピピピピ…、キョキョキョキョ…ホーホケキョ…と囀りが絶えない…。目の前の低い松の枝先に、ウグイスが飛来して美声を奏で始めた!。慌ててカメラを構えピント合わせもそこそこにシャッターを切る。彼女、いや、鳴くのは彼氏だ…が脅えることもなく、目の前ですばらしい囀りを奏でてくれる!。見ていると羽や身体全体を大きく震わせて、嘴からだけなのか?…どこから発するのか?…すばらしい演奏を聞かせてもらった。
そして登り返して子三瓶山(961m)山頂に到達。昼にはちょっと早いが、アッペンダウンの連続でおなかも空いて食事とする。さらに孫三瓶山(907m)へ下っては登り…、新緑の樹林帯を下りながらハナイカダ、ゴヨウアケビ、ミツバアケビ、シュンランなどの花を見て南登山口・さんべ荘に帰着。車を取りに東の原に行って、JR大田市駅で帰福の列車に友清さんを見送り、松江から戻ってきた藤井和と合流し、今夜の宿、温泉津温泉・まるき旅館へ走る。(泊)
温泉津温泉は石見銀山から銀の積み出しで賑わった港町に湧く(開湯1300年の歴史ある)温泉で、湯治場の風情を残す「元湯」と、レトロな洋館風の「薬師湯」の共同浴場があり、木造3階建ての旅館など、江戸〜昭和初期の風情を残す町並みが続く。世界遺産登録で脚光を浴び、石見銀山の観光で宿泊客も多くなっている。
●5月3日(土):石見銀山見学 晴
せっかく近くに泊まったから、山ではないが“石見銀山”へ行くことにした。
一番下部の駐車場に停め歩いて入る。係りの人からガイド・パンフレットを貰い、ここが何々、ここは何屋敷だとかの見所説明を受けたが、福岡への帰りもあり銀山のメイン“龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)”のみを見に行く。だが一番奥にあり結局は全コースを歩くことになり(大森代官所や○○家住宅などには入らず)、銀山跡の坑道に入り“石炭採掘の様相や、鯛生金山、串木野金山などの施設とは全く異なり、ただ銀山跡があっただけ”という印象。だがその昔(16世紀)これだけの鉱山を見つけ、暗い地下の狭い坑道で固い岩盤を打ち砕き、銀の採掘をし、世界に輸出して日本の経済発展の礎ともなる事業がなされていたということに敬服する。
あとは9号線を下り、しまね海洋館アクアスへ今人気の“シロイルカのバブル”を見に寄ったが、2時間待ち!のため諦めて浜田〜益田を経て、高速六日市I.Cから福岡へ帰ってきた。 (藤井哲夫 記)
【写真撮影:原田和夫-H】
:澤田眞次-S】
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