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 苗場スキー(新潟県) 平成27年3月6日(月)~9日(木) 3泊4日

 
 苗場スキーツアー報告

 世界最長5.5kmのドラゴンドラが苗場・田代・神楽・三俣4つのスキー場を結ぶ!

参加メンバー  藤井T、信岡、平内、元木、友清、松井、榊、甲斐
期  日  2017年3月6日(月)~9日(木) 4日間
集  合  6日7:20 福岡空港第2ターミナルANAカウンター前
出  発  6日 福岡空港ANA1281 8:10= 9:55 新潟空港…ジャンボタクシー11:30=14:10
               苗場プリンスホテル(宿泊)
帰  路  9日 苗場プリンスホテル(6号館ロビー集合 15;00)… ジャンボタクシー15:15=18:00 新潟空港                     ANA1284 19:15=21:20福岡空港
宿  舎  苗場プリンスホテル 〠949-6292新潟県南魚沼郡湯沢町三国202  ☎025-789-2211
              利用部屋:2号館 ファミリーツインルームDタイプ洋室(4名1室)
        朝食:3号館アゼリア または6号館 清津/和食・洋食/バイキング
費  用  60,000《航空機、タクシー、ホテル(朝食含む)・♨その他
           ※別途:リフト券:シニア1日券5,000円(55歳以上)要証明書、レンタル、昼食、夕食
               出発日の食事:朝食(各自)・飛行中の昼食(各自)・夕食(各自持ち寄りパーティ)

 苗場スキーは今回で4度目になる。最初は平成15年3月10日~13日に23名の参加を得て実施。浅貝ゲレンデ傍のホワイトパレスに宿をとった。偶然だったがこの宿の若い女主人は、長崎佐世保鹿子前の出身で、同じ九州人としてすぐに馴染み?となり、翌年も単一のツアーとしてはビックリの24人ものメンバーが繰り込み賑わった。

 今回はちょっと贅沢にと、ツアー会社の企画に乗りプリンスホテルにした。丁度今年は【Anniversary 55 th Naeba】のスキー場開設55周年となっていて、何があるか❓期待しての出発。飛行機はプロペラ式で新潟まで1時間45分のフライト。到着したらすぐにジャンボタクシーが出迎え。自分たちだけのツアーなので、レストタイム2回で苗場プリンス到着。途中の道路も随分整備されていて快適だった。早速スキー道具など明日の準備を済ませ温泉へ。夕食は各人が持ち寄った食材を並べ“乾杯!”で明日からのスキーイングに備える。

 1日目:いい天候だ!。筍山(1,789m)方面へリフトで上がり、まず足慣らしの滑降をして、2組に分かれ楽しむ。明日は滑らずDaytripで近郊に小旅行する人もいて、苗場名物のゴンドラ“ドラゴンドラ”(搬送距離5,481m<世界一>・搬送時間約20分)に“今日乗っておかないと”と移動する。苗場から、このゴンドラの先は【田代エリア】【かぐらエリア】【みつまたエリア】が展開し、自由に移動でき、広大なゲレンデの滑降を存分に楽しめることができる。それぞれにゴンドラ、ロープウエイ、高速リフトなども敷設されている。以前滑った【かぐら】の中央部には登山客も宿泊できる「和田小屋」が健在だった。(※松九会登山グループも東北百名山登山時などで宿泊)

夜はホテルでディナータイム。ビールで乾杯しバイキングに舌鼓を打つ。今回、夕食は予約していなかったが、55周年と相まって?、宿泊1日につき一人500円のプレミアム券が6枚(500×6枚=3,000円)付くことになっていた。が、それを認識していなかったので、夕食費は別途必要と思い緊縮財政でと考えていたが十分にゆとりが出て、それなら今晩は中華風の豪華な料理にしようとなった。

 翌日もこの待遇を受け、思い思いにすき焼きなど豪華な?夕食や、昼食費にしたり、普段はお土産など買わないのに、全額でお土産を買ったりなど思わず楽しめることができた。スキーはドラゴンドラや各エリアのゴンドラを乗り変えながら、目いっぱい楽しんでシーズンを終えた。来年は長野オリンピック会場だった“志賀高原へ”の声が上がった!!                                                                        報告: 藤井哲夫  写真: 榊 恵子

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  十数年ぶりの苗場スキーは何が良かったと言って、プリンスホテルに泊まれたことです。
ホテルの目の前に広がるゲレンデ、5.5kmを20分で山越え、渓越えの眺望を楽しめるドラゴンドラなど非日常を大いに楽しむことができました。

 左ひざが不調なので滑るのは1日だけとして、次の日はバスとJRを乗り継いで長岡市往復のデイトリップに藤井さんを誘い行きました。豪雪地帯といわれる通り苗場では晴れていたのが、列車の窓ガラスに吹き付ける雪で外が見えなくなるほどでした。 しかし、長岡で山本五十六と河井継之助記念館を回るころには、雪がやんでくれ助かりました。昼食に入った小嶋屋の名物へぎそばがおいしかった。

  最終日、3時の出発までの待ち時間はスキーをする人、お土産を物色する人、写真を撮る人それぞれに過ごした。私は苗場旅館街を地図を片手に歩いた。前に来た時に泊まったホワイトパレスとその近くにあった温泉を目指した。というのはその時、温泉の庭にスキー板で雪囲いがしてあり、私のスキーも仲間入りさせてもらったので、もしかしてそれらに再会できるかもと思ったのです。温泉は今も営業していたが、主が変わって広い駐車場となり植栽は跡形もなかった。ホワイトパレスは隣に立派な別館が建っていて時の流れを感じた。

 色々とお世話をして下さる仲間のお陰で22年目のスキーツアーを故障もなく楽しむことができました。感謝!         
                                                                                                      報告文 : 友清 節子

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苗場スキーから長岡への小旅行

  苗場のスキー場・プリンスホテルから路線バスでJR越後湯沢駅へ出て、上越線で長岡へ向かう。沿線はさすがに豪雪地帯とあって白一色、広々とした雪原は雪がない時期はどんな景色なのだろうか?。畑か田んぼか、コメどころだから田んぼだろうかと想像しながら、右や左に視線を向ける。お昼前の3両編成の列車は通学も通勤の人もなく、乗客もまばら…。友清さん、席を立ちカメラを手に窓外に広がる山々の景色を撮っていると、隣のおじさん“雪は珍しいですか?”ときた。“九州から来たので”との声に、ちょうど大きな山が見え“あれが巻機山(まきはたやま)”1967mなどと説明してくれた。途中吹雪となり窓に吹き付ける雪がすぐに凍り付き見えなくなる。

  この沿線には有名なスキー場が多く、岩原・湯沢高原・GALA湯沢・NASPA・石打丸山・セントレジャー舞子・上越国際・シャトー塩沢・六日町八海山etc。山では谷川岳に始まり飯土山・先の巻機山・八海山・越後駒ヶ岳などが並ぶ。列車はさらに北へ向かって走り、六日町~五日町~小千谷を経て長岡着。

 駅では友清さんが、観光案内所でパンフを貰い、2~3時間で回れる名所は?と尋ねる。この地の名物「へぎそば」の店も紹介していただき訪ねたが道がわからず、通りかかった高校生(男子3人)に聞くと「どこに行くのですか?」地図を見せると「あゝコジマやさん、ここは全く反対側です、店まで案内しましょうか…」とすごく親切。案内を断って少し歩き、ちょうど12:00だったので店頭で待ち時間が?と思ったが「どうぞ」の案内。数日前にTVで紹介されていたので、いつか“食べてみたいな”とは思っていたが、こんなに早く“へぎ(枌)ソバ”にお目にかかれるとは!。ソバの繋ぎには布海苔(ふのり)を使うとかで、かなり固めで、しっかり嚙まないといけないし、盛り方も風変わりだが結構おいしく、この旅での逸品だった。

  2つの記念館に入館。山本五十六記念館では、私がまだ7~8歳の頃、戦中の日本の連合艦隊司令長官として、大戦争の指揮をとった人と、また山本五十六元帥としての名声とに、すごい人だなとしか知識になかった。
だが、この記念館の展示物や記述を目にし、大正から昭和初期にはアメリカに赴き、駐在武官、国際会議などを通じ国際的視野を広め、平和を希求し海軍軍縮条約の締結に努力、三国同盟に徹底的に反対。また連合艦隊司令長官として、アメリカの国力、国民の気性を知りぬき、早期講和を望むなど改めて氏の国際性・人間性等々を知ることができた。

  しかし、昭和18年4月18日連合艦隊司令長官山本五十六ら11名が搭乗した海軍一式陸上攻撃機が、ソロモン諸島バラレ島に赴く途中、アメリカ陸軍の戦闘機の襲撃を受け墜落し、全員が戦死した。昭和59年(1984)2月山本五十六の生誕100年を記念して、山本元帥景仰会は、ブーゲンビル島のジャングルをたずね搭乗機の残骸を前に慰霊祭を行った。その後パプアニューギニア政府の厚意により、平成元年(1989)、左翼の里帰りが実現。(長官搭乗機の左翼展示あり)

  河井継之助記念館では、この人物は全く知識がなく、此処に来て初めて知り得た。越後長岡藩が輩出した風雲児と言われ、《民(たみ)は国の本(もと)、吏(り)は民の雇(やとい)》という言葉を残している。幕末の頃は日本各地の藩で、坂本龍馬のような傑人・偉人が随所に台頭し、日本改革に身を挺し、命を懸けて奔走したが、現代はどうでしょう?…日々のマスコミ報道を見ても、頭をかしげるようなことが多いのは何故だろうか?
この2つの記念館は、この旅での私の心に大きな感動を与えてくれた。

  思えば新潟へは現役の頃、新潟地震(昭和39年1964)で石油コンビナートの爆発火災がひどく長引き、現地に入れず、沈静化してからの災害状況の視察・地震対策のため工場長と営業課長、私で出張で訪れたが、海岸地域でのアパート群(4階建て数棟)が、将棋倒しの如く倒壊していたのには言葉もなかった。
長岡には融雪ポンプや除鉄滅菌器(地下水のカナケ(鉄分)除去:当社開発・販売)の設置技術指導で訪れたが、今もこの町の道路には融雪のため地下水が放水されているが、やはりカナケにより周辺の道路は赤茶色に染まっている。

  ある時は大雪の日に訪れ、駅を出てすぐに長靴を買って営業所へ歩いたこと、営業所の所長から、この地には「ゆきつばき(雪椿)」という名の美しいツバキがある」と教えられたこと。またある時は、民家の2階の屋根に上り融雪ポンプの配管設計と敷設を工事業者とともに手伝ったことなどもあった。
この町を歩いて随分昔の、忘れていたことが懐かしく蘇ってきた。50年ぶりの長岡であった。

                                                          長岡にて回顧 藤井哲夫

 

1.新潟まではプロペラ機 2.持ち寄りの夕食


3.苗場スキー場の朝 4.雪面に影が映る


5.プリンスホテル前のゲレンデ


6.松九スキー5精鋭

 
 7.若手精鋭フルメンバー
 
8.ゴンドラで最高点の筍山1,789mへ 9.ホテルの夕食は豪華に


10.筍山から谷川岳や巻機山など雄大な展望 11.天気晴朗!絶好のスキー日和


12.ドラゴンドラでエリア移動 13.夕日が雲を染め出した

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